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親日的な感情

親日感情の背景

ポーランドの人々の親日的な感情の背景には次のような歴史的な出来事が関係しています。

(1)日露戦争

日露戦争(1904~1905)は、日本が帝政ロシア相手に戦って勝利した戦争ですが、この戦争を機に、ポーランドの親日感情が一気に高まったと言われています。三笠艦上の図この頃、ポーランドはロシアとプロシャに分割され、地図上にポーランドという国はありませんでした。当時、極東の一小国に過ぎなかった日本が、超大国帝政ロシアを相手に互角に戦い、そして勝利したことは、ロシアに長年支配され続けていたポーランドの人々に強い衝撃を与え、自由と独立への希望がめばえたのです。さらに、ロシア軍の前線には多くのポーランド人が兵士として送り込まれていましたが、日本軍は捕虜としたこれらの人々をきわめて人道的にあつかい、本国に送り返しました。日本人の「武士道精神」としてポーランドの人々に語り継がれています。

「日本と日本人」
日露戦争の勝利は単に有色人種に止まらず、ロシアの圧政に苦しむフィンランドやポーランドなどへも飛び火し、民族国家独立闘争を激化させた。ポーランドの作家プルスは『クーリエ・コディゼニー』に「日本と日本人」を連載し、日本に見習えと次のように説いた。
「日本人の最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものでなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく何千人もの者が自らその任務に志願するだろう。・・・(中略)・・・これが、つい二年前にはヨーロッパ人に『猿』と呼ばれていたにもかかわらず、今は敵国からも尊敬を集めている国の姿である。尊敬されたいと思うなら日本人を手本として努力しなければならない。」( 平間洋一「日露戦争と国際社会」から )

(2)シベリア孤児の救出

大正時代の日本は世界に誇れるすばらしいことをしていました。シベリア孤児の救出です。  ポーランドは1918年まで帝政ロシアの支配下にあり、多くのポーランド人が政治犯として家族とともに極寒のシベリアに流されていました。第一次大戦が終わり、ポーランドはようやく独立を回復しましたが、ロシア革命の混乱の中で十数万人のポーランド人がシベリアに取り残されてしまいました。特に、親を失った子供たちは、飢餓や伝染病で衰弱するなど悲惨な状況にありました。ポーランドの新政府は、せめて子供たちだけでも祖国に連れ帰りたいと欧米諸国に救助を求めたのですが、ことごとく拒否され、最後に日本へ援助を求めてきました。

シベリア孤児の救出 日本政府は、ポーランドとの国交がなかったにもかかわらず、すぐに孤児救出を決定します。シベリア出兵中の日本軍が極寒の奥地に分け入り、数次にわたる救出作戦の結果765名の孤児を救出、手厚く保護して本国に帰還させました。日本を去る日、孤児たちは医師、看護師、近所の人々の首にしがみつき、泣いて離れようとしなかったそうです。無事帰国したシベリア孤児当時の孤児の一人で2006年に亡くなられたアントニーナ・リロさんは、6歳の時にロシア極東のウラジオストクで保護され、大阪で2週間過ごした後、母国ポーランドに戻りました。彼女は、『日本は天国みたいなところだった』と周囲の人々に話していたそうです。また、リロさんは、第二次世界大戦中にポーランドでユダヤ人を助け、イスラエル政府から賞を授与されています。「日本人に助けられたので、今度は私がユダヤ人を助けてお返しした」と話していました。なお、阪神淡路大震災で孤児となった日本の子どもたちの心の傷を癒やそうとポーランドに招待したのも、シベリア孤児として日本に助けられた人たちの働きによるものです。

(3)第二の日本をめざそう

グダニスク造船所 ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)元大統領は、1943年にポーランドの小さな村に生まれ、工業高校を卒業後、グダニスクの造船所で電気工として働いていました。 グダニスク造船所第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の監視下で表現の自由を奪われていました。造船所の仲間から信頼されていたワレサは、やがて自由を求める運動の代表者として、1980年に自主管理労組「連帯」を創設しました。1980年7月に食肉が50%以上値上がりしたことがきっかけで、人々は食料品の値下げを訴える行動を起こしましたが、それはやがて人間としての自由を求める運動となっていきました。社会主義政権下では命がけの行動でした。自由を求める人々の運動はさらに高まり、世界の共感を集めて、1983年にワレサはノーベル平和賞を受賞しました。そして、ついにポーランドでは、東欧における初の自由選挙が行われ、1990年ワレサはポーランド大統領に選出されました。大統領となったワレサは、戦争や社会主義政権下で立ち後れていたポーランドを復興させるため、人々に次のように呼びかけました。「ポーランドを第二の日本にしよう。我々は第二の日本になりたい。普通の日本の市民が体験している明るさ、自由、豊かな暮らし、そういうものがポーランドにほしい。第二の日本をめざそう。」
ワレサは、大統領を退いてからも造船所の労働者として働きながら、自由と民主主義を守る活動を続けています。

漫画から歌舞伎まで

サムライ一般の人々の日本への関心も総じて高く、特に社会主義体制時代をよく知っている中高年以上の人々は、日本の技術力や経済力だけでなく、伝統文化・礼節・自由などにあこがれに近い気持ちを抱いています。ときには、ワルシャワ市盆栽協会主催の盆栽展が行われたり茶道教室が開かれたりすることもあります。今や日本食ブームは世界的なものになっていますが、ワルシャワにも日本人のオーナーやシェフが腕をふるう本格的な日本料理店が数軒あり、ポーランド人が経営するスシ・バーにいたっては100軒以上もあります。また、市内には合気道・柔道などの武道場がたくさんあります。東欧は(今は中欧と呼ばれることが多いですが)、もともと日本の武道が盛んなところなのです。教育面でも、柔道を体育の正課としている学校、日本舞踊や折り紙を教えている学校、日本文化研究クラブのある学校などがあります。

この国の多くの人がポーランドの東隣は日本だと感じている。残念ながら今のところ片思いではあるが・・・。」これは、ワルシャワ大学日本学科の先生の言葉です。同学科では、卒業後の就職率がそれほどよいわけではないにも関わらず、入学試験は毎年20~30倍という超難関です。学生の多くが日本への留学を希望し、毎年15~16名が念願の留学を果たします。大半の学生が大学5年間と大学院3年間、併せて8年の間に一度は日本留学をしていることになります。二度留学する学生も少なくありません。彼らは、仏教史、近世史、連歌、俳句、歌舞伎、祭祀などの研究を通して、日本に関する詳しい知識を有しており、日本文化や歴史に対する関心の高さや知識の豊富さは驚くばかりです。マンガ・アニメから日本に興味を持った若者が、数年後には歌舞伎研究の第一人者になっているということも珍しくないのです。

若い人の間でブームになっているのは日本のアニメです。マンガが縁で日本語や日本文化に興味を持つようになった高校生や大学生もたくさんいます。ワルシャワ大学には日本学科(日本語学科ではなく日本学科)があり、毎年20倍から30倍の受験者が殺到する超難関となっています。学生のほとんどが8年間の在学中に1~2度は日本に留学します。日本学科のある先生は、「留学生の多くが日本の学生から“おまえの日本語は古くさい”と言われて“新しい日本語”を覚えて帰ってくるため、帰国後に正しい日本語に戻すのに骨が折れるのです」と、苦笑しながら語っておられました。同学科で教えるのは、国語審議会が認める正統な日本語で、将来大臣クラスの通訳をすることになっても通用するレベルを目指しているのです。大学3年終了迄に2000字近くの常用漢字をマスターしなければ転科または退学となるため、学生たちは授業以外に毎日6時間の自宅学習をしているとのことです。

日本語弁論大会 ワルシャワでは、毎年3月頃に日本大使館主催の日本語弁論大会が行われ、各大学から学生が出場します。近年は、クラコフのヤギェウォ大学やポズナニのアダム・ミツキエヴィッチ大学の学生が優勝することもあり、ワルシャワ大学の学生も安穏としておれない状況のようです。弁論ヨーロッパ各国で開催される日本語弁論大会のために巡回している日本人審査員によれば、ポーランドの大学はいずれも日本語のレベルが非常に高いとのことです。本当の実力は、弁論のあとで行われる審査員との自由討議でよくわかるからです。美しい日本語でよどみなく発表した学生でも、その後の審査員との一問一答のやりとりでしどろもどろになるとのことでした。日本学科学生や研究者の関心は、日本語という言語そのものにかぎらず、日本の文化や歴史などにも大きく向けられています。さらに、彼らの研究対象は、日本文化と深い関わりのある中国や韓国の文化・言語にまで及んでいます。そこには、すそ野の広い研究と教育の姿勢が感じられます。彼らの高い日本語能力は、こうした幅広く層の厚い学習と研究姿勢によるものなのでしょう。

日本の隣はポーランド?

ポーランドと日本は距離的には遠く離れていますが、ポーランドの人々は日本の文化や日本という国に好意的な強い関心を寄せています。人々の多くがポーランドの東隣は日本であるべきと思っている、とさえ言われるほどの親日国なのです。ともすれば日本人が見過ごしがちな自国の良さと課題を、そして忘れかけている大切な何かを再認識させてくれるのがポーランドです。ポーランドを理解することは、いろんな意味で自国日本の再発見につながると考えます。

これまでのところ、ポーランドの多くの人々にとって、日本という国はとても親しみのある国であるようです。しかし、現在ポーランドは順調に経済発展しつつあり、若者の間にはアメリカ文化が急速に浸透しています。ポーランドの人々がいつまでも日本に高い関心を持ち続けるとは限りません。この国の人々は教育水準も高く、勤勉です。日本がこの国の文化的・人的資源の豊かさに目覚めて関心を抱き始めたとき、すでにこの国の人々の日本への関心が冷めていた、というようなことにならぬことを願っています。

◇親日家アンジェイ・ワイダ氏

ポーランドを代表する映画監督です。若い頃、浮世絵など日本の芸術に感銘を受け、美術大学に入学、アンジェイ・ワイダ氏のち映画監督として数々の名作を生み出しました。『地下水道』など抵抗三部作と呼ばれる作品では、ナチスの暴虐と戦った市民の姿を描き、その後はナチスに代わってポーランドの自由を奪ったソ連への抵抗を描いています。ワレサ議長率いる「連帯」活動に参加したことで、ポーランドの民主化が大きく進展しました。最新作『カティン』で描かれているカティンの森事件では、ワイダ氏の父親もソ連軍に虐殺された4,000人にのぼるポーランド軍将校の一人です。「過去と未来をつなぐために今を生きている」という信念のもとに、現在も精力的に映画を撮り続けておられます。映画監督として仕事に取り組む姿勢には厳しいものが感じられますが、ふだんは気さくな好々爺であるようです。大の親日家で、日本の風景を描いたスケッチも多く描かれています。

◇ワイダ氏からのメッセージ(東日本大震災直後)

このたびの苦難の時に当たって、心の底からご同情申し上げます。深く悲しみをともにすると同時に、称賛の思いも強くしています。恐るべき大災害に皆さんが立ち向かう姿をみると、常に日本人に対して抱き続けてきた尊敬の念を新たにします。その姿は、世界中が見習うべき模範です。ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」

私はこう答えるのみです。「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」

日本の友人たちよ。あなた方の国民性の素晴らしい点はすべて、ある事実を常に意識していることとつながっています。すなわち、人はいつ何時、危機に直面して自己の生き方を見直さざる をえなくなるか分からない、という事実です。

それにもかかわらず、日本人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です。

日本は私にとって大切な国です。日本での仕事や日本への旅で出会い、個人的に知遇を得た多くの人々。ポーランドの古都クラクフに日本美術・技術センターを建設するのに協力しあった仲間たち。天皇、皇后両陛下に同行してクラクフを訪れた皆さんは、日本とその文化が、ポーランドでいかに尊敬の念をもって見られているか、知っているに違いありません。

2002年7月の、あの忘れられないご訪問は、私たちにとって記念すべき出来事であり、以来、毎年、私たちの日本美術・技術センターでは記念行事を行ってきました。

日本の皆さんへ。
私はあなたたちに思いをはせています。この悪夢が早く終わって、繰り返されないよう、心から願っています。この至難の時を、力強く、決意をもって乗り越えられんことを。

ワルシャワより  アンジェイ・ワイダ (以上、共同通信記事から引用)



◇ピウスツキ兄弟と日本

ワルシャワのサスキ公園には無名戦士の墓があり、その前の美しい広場はピウスツキ元帥広場と呼ばれています。ユゼフ・ピウスツキは、1867年ポーランド貴族の子として生まれ、ハリコフ大学で医学を学んでいました。ところが、1887年にロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画が発覚し、レーニンらと親交のあった兄のブロニスワフ・ピウスツキとともにシベリアへ流刑となります。その後、大赦により帰った後も、ロシアの圧制に苦しむ故国ポーランドの独立運動を続けます。日露戦争が始まった1904年には日本を訪れ、ロシア軍の情報提供やロシア軍内のポーランド兵士への投降勧誘ビラの配布などの協力と引き換えに、武器や資金援助を受けています。極東に動員されたロシア兵の中には支配下にあったポーランド人やフィンランド人が多かったそうです。1908年、ユゼフ・ピウスツキは、後のポーランド軍となる私設軍隊を作り、1914年の第一次世界大戦勃発とともに作戦に参加、1918年11月にはポーランド第二共和国国家元首となって、念願の祖国独立を果たします。その後、一旦政界を引退しますが、政府の無策から国が混乱していくばかりの状況を見かねてクーデターを起こします。国政の中心に返り咲いたものの大統領とはならず、首相兼国防省として実権を握り、人々から圧倒的な支持を集めて共和国の基礎を固めました。
しかし、ピウスツキ元帥の死から3年後の1939年9月1日、ドイツ軍は不可侵条約を破ってグダニスク(独名:ダンツィヒ)のヴェステルプラッテを奇襲。ここに第二次世界大戦が勃発し、再びポーランドは独立を踏みにじられたのでした。

兄のブロニスワフ・ピウスツキは樺太に流刑となり、その間に民俗学者としてアイヌ語の収集に没頭します。刑期満了後も樺太に残ってアイヌ語の収集と研究を行い、アイヌの女性と結婚して一男一女をもうけますが、日露戦争勃発とともに日本へ渡り、アメリカ経由でポーランドへ戻りました。帰国後はヨーロッパ各地を転々としながら、弟ユゼフらと連絡を取り合ってポーランドの独立運動に携わる一方、アイヌ研究も続けています。しかし、第一次世界大戦終結を前にした1918年にパリのセーヌ川に身を投げて自殺しました。祖国ポーランドの独立直前のことでした。ブロニスワフは収集したアイヌ語を蝋管に録音していましたが、近年その一部がポーランドで発見されました。現存する蝋管は、最古の樺太アイヌの音声資料として大変貴重なものとなっています。
その後、彼の孫にあたる日本人がポーランドのピウスツキ家に招かれ、正式にピウスツキ家の家系図に書き加えられました。  (参考:Wikipedia )



日露戦争と世界史に登場した日本

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