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誇り高き不屈の魂

人間の尊厳

1939年9月1日、親善訪問を口実としてポーランド北部の平和な港町グダニスクに投錨していたドイツの軍艦が、突然ポーランドの守備隊を奇襲攻撃しました。2500名以上のドイツ軍に対して200名のポーランド守備隊はよく戦いましたが、一週間後に降伏しました。第二次大戦勃発これに対して、二日後には、イギリスとフランスがドイツに戦線を布告し、ここに第二次世界大戦が始まったのです。圧倒的な兵力のドイツ軍に対してポーランド軍は当初よく戦いましたが、長い国境線に兵力を散開させていたため有効に生かすことが出来ず、次第に追い詰められていきました。さらに、9月17日には、突如ソ連軍が東からポーランドになだれ込み、挟み撃ちに遭ったポーランドはドイツとソ連に分割占領されてしまったのです。しかし、ポーランドは降伏せず、以後亡命政府がイギリスから国土回復を図ることになります。(第二次世界大戦勃発の経緯については「『ポーランド電撃戦』山崎雅弘 2010 学研M文庫」に詳しく描かれています。)

短期間にポーランドを占領したドイツ軍は、ユダヤ人や抵抗するポーランド人を強制収容所に送り込みます。やがて、ドイツ国内だけでは足りず、ポーランド各地に強制収容所や絶滅収容所を作っていきます。ポーランド南部には、昔も今も平和で美しい古都クラコフがあります。この天国のようなクラコフの西方約50㎞、オシフェンチムの地にアウシュヴィッツ強制収容所が作られました。天国と地獄の距離は、車でわずか1時間ほどだったのです。

ビルケナウ アウシュビッツでは、最初はナチスに抵抗するポーランド人や軍人を強制的に収容し、処刑していましたが、やがて、ヒトラーのユダヤ人絶滅計画によって広大な第二収容所ビルケナウが作られます。ヨーロッパ各地から列車に詰め込まれて運ばれたユダヤ人の大半が、列車から降ろされるとすぐにガス室で殺され、焼却されたのでした。強制労働に使えそうな体力のある人は、粗末なバラックに詰め込まれましたが、劣悪な環境のため、大半が栄養失調で亡くなりました。アウシュビッツの犠牲者は百数十万人以上にのぼると言われています。歯止めが利かなくなった人間の狂気を見る思いがします。

人間の狂気と残虐さが支配する収容所にあって、身をもって人間の尊厳を示した人がいました。死刑を宣告された囚人の身代わりとなって命を捧げたポーランド人のコルベ神父や、ユダヤ人の子どもたちと運命を共にしたユダヤ系ポーランド人医師のコルチャック先生です。

◇コルベ神父
マキシミリアノ・コルベ神父(1894-1941)は、1894年ポーランドに生まれ、24歳の若さで司祭になりました。1930年から7年間は日本の長崎に住んで、布教活動にあたりました。その後、故郷の修道院長に任ぜられたため帰国しますが、1939年ナチスドイツによるポーランド侵攻が始まり、ユダヤ人をかくまったとしてゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に捕らえられ、ついにはアウシュビッツ収容所に送られてしまいます。そしてある日、収容所から脱走者が出たことで、見せしめとして囚人10人が餓死刑に処せられることになりました。 ビルケナウ2一人の男が「私には妻子がいる」と泣き叫びました。その時、コルベ神父は「私が彼の身代わりになります」と申し出たのです。ナチスはコルベ神父と9人の囚人を地下牢に押し込めました。暗い牢内で死ぬまで水も食べ物も与えられない餓死刑に処せらた人は、飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でしたが、コルベ神父たちは互いに励ましあいながら死んでいったといわれています。当時の看守は、牢内から聞こえる祈りと賛美歌の歌声で、餓死室は聖堂のように感じられたと証言しています。そして2週間後、コルベ神父を含む4人はまだ息があったため、薬物を注射して殺害されました。1941年8月14日のことでした。

◇コルチャック先生
ヤヌシュ・コルチャックは、裕福なユダヤ系ポーランド人の家に生まれながら、小児科医・孤児院院長・児童文学作家として、生涯を孤児救済と子どもの教育に捧げました。1942年8月、ナチス弾圧下のポーランドでは、多くのユダヤ人が絶滅収容所に送られていました。既に高名であった彼にはナチスも一目置き、助命の特赦が与えられましたが、「子どもたちも同じように扱われないなら、私は子どもたちと運命を共にします」と、ユダヤ人孤児200名あまりと共にワルシャワ北東のトレブリンカ収容所に送られました。収容所内で書き続けた彼の日記は1942年8月5日で終わっています。  子どもは幸福になる権利を持っている等、彼が考えていた子どもの人権を守る理想は、その後国連で「子どもの権利条約」として実現されました。日本も1994年にこの条約に批准しています。

ワルシャワ蜂起

映画で有名になった「戦場のピアニスト」は、著者ウワディスワフ・シュピルマンが、ナチスドイツの迫害から逃れてワルシャワで潜伏生活をした実話をもとに書いた本です。ワルシャワはナチス・ドイツに占領され、ユダヤ系ポーランド人でピアニストとして活躍していたウワディスワフ・シュピルマンは家族と共にゲットーへ強制移住させられます。ゲットー内のカフェでピアニストをしてわずかな生活費を稼ぎながら過ごした平穏な日々もつかの間、やがてシュピルマン一家を含む大勢のユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ向かう列車に乗せられます。旧友に助けられ、シュピルマンは奇跡的に収容所行きを免れますが、その日から過酷で孤独な逃亡生活が始まるのでした。

この物語のクライマックスは1944年8月1日のワルシャワ蜂起です。この年にソビエト軍が攻勢に転じると、ナチス・ドイツは敗走を重ねます。解放地域がワルシャワ付近に及ぶと、それに呼応して8月1日にワルシャワ市民が一斉に武装蜂起しました。 ワルシャワ蜂起ところが、ワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東数キロまで迫っていたソ連軍は突然その進軍を止め、イギリスの度重なる要請にも関わらず、蜂起軍を見殺しにしてしまいました。親英的な亡命ポーランド政府の指揮下にある蜂起軍が勝利することはソ連にとって望ましいことではなかったのです。その結果、軍人と一般市民合わせて20万人以上がナチスに殺され、通信兵としてレジスタンスに加わっていた多くの女性や子どもも犠牲になりました。9月末には蜂起は完全に鎮圧され、ドイツ軍は報復としてワルシャワの町を徹底的に破壊しました。

過酷な状況を生き抜いたシュピルマンは、戦後結婚して子供もでき、平穏で幸せな人生を送ったようです。彼の長男クリストファー・スピルマン氏は現在福岡市に在住し、九州産業大学の教授として日本近代政治思想史を教えておられます。父ウワディスワフの思い出をもとに、「シュピルマンの時計」というエッセイを書かれています。

未来への責任

ナチスに代わってポーランドを支配したソ連は、ワルシャワを社会主義に基づくソビエト流の町に作り替える計画を持っていました。それを知った市民は、「意図と目的をもって破壊された街並みは、意図と目的をもって復興させなければならない」という信念のもと、知識人から労働者にいたるまで一致団結して当局の計画に反対、ワルシャワの町を戦前と同じ姿に復元する強硬手段をとりました。 バルバカン旧市街の復興は、ドイツなど各国の援助や政府の予算などにはいっさい頼らず、ワルシャワ市民の寄付と勤労奉仕だけで行われました。「失われたものの復興は未来への責任である」という理念のもと、壁のひび一つに至るまで戦前と同じに復元されたワルシャワ旧市街は、建物そのものの保存価値ではなく、街を再建復興させた人々の不屈の意志を認められ、1980年、世界遺産に登録されました。現在のワルシャワ旧市街や新市街の街並みは、戦後、市民の自発的な活動によって忠実に復元されたものなのです。

ポーランドの人々は、第一次世界大戦までは帝政ロシアからの独立、第二次世界大戦中はナチスドイツへの抵抗、そして第二次世界大戦後は旧ソ連による支配からの脱却と、約200年間にわたって自由と独立を求めて戦ってきました。その過程で国を愛する多くの人々が、政治犯として投獄されたり処刑されたりしました。ワルシャワ市内には、苦しかった時代を忘れないために、当時の監獄跡がそのまま保存されています。市中央部の美しいサスキ公園には無名戦士の墓があり、衛兵が24時間体制で警備しています。11月11日は、第一次世界大戦が終了し、123年間にわたるロシア帝国の支配から解放された日です。国中いたるところで記念行事が催され、どの家も赤と白のポーランド国旗を掲げて、ポーランドの独立記念日を祝います。

旧市街遠望 現在、市内で最も高い建物は、第二次世界大戦後にソ連のスターリンから贈られた文化科学宮殿です。巨大な石造りの建造物は、市内のどこからでもよく見えるので方向を定めるのには便利ですが、人々から「ワルシャワの墓石」と呼ばれ、評判はよくありません。それで、「大嫌いな文化科学宮殿を見なくて済む方法はその展望台にのぼることだ。」といったジョークもできたそうです。