薫り高い歴史と文化

芸術の都・北のパリ

ポーランドに関するこんな小話があります。
王宮広場「昔、パリの青年がモスクワをめざして列車に乗りました。また同じ頃、モスクワの青年はパリをめざして列車に乗りました。ところが、彼等が乗った列車は両方とも故障のためにワルシャワで運転打ち切りとなりました。そんなことは知らない二人の青年はそれぞれに目的地に到着したものと思い、パリから来た青年は“とうとうモスクワまで来てしまった!”と感慨にふけり、モスクワの青年は“ここがあこがれのパリなんだ!”と感激しました。」(兵藤長雄著『善意の架け橋-ポーランド魂とやまと心-』による)

ワルシャワの雰囲気をよく表すと同時に、ヨーロッパにおけるポーランドの位置づけを象徴する小話です。近年、ポーランドは中欧と呼ばれることが多いようですが、西ヨーロッパの国々と比較するとやはり現在でもポーランドは東欧というほうが雰囲気的にぴったりとする気がします。中世ヨーロッパの雰囲気が漂う街並みと薫り高い芸術文化、美しく豊かな自然、ゆったりとした時間と空間、誇り高き人々の素朴な生活・・・、ポーランドは魅力に富んだ興味深い国です。

王宮あまり知られていませんが、ポーランドはその昔、ヨーロッパの強国として君臨していた時代があります。異民族や他宗教に寛容な国であったため、ユダヤ人など多様な民族が集まり、一大多民族国家を形成したのです。小麦や塩、銀や琥珀などの輸出によって16~17世紀初めにポーランドは全盛期を迎え、北のバルト海から南の黒海に至る広大な領土を有するヨーロッパ有数の大国として繁栄しました。ワルシャワは「芸術の都」「北のパリ」とも呼ばれる、ヨーロッパを代表する都市の一つでした。

ポーランドは経済力によって全盛期を迎えますが、さらにその繁栄を強固にしたのがフサリアと呼ばれる騎士集団でした。金属の甲冑で身を固め、巨大な鳥の羽飾りを背負い、騎馬を巧みに操り、長槍を武器にして突撃する重騎兵フサリアは、当時ヨーロッパ最強の騎兵集団として恐れられ、向かうところ敵無しの強さを誇りました。フサリアの伝統と精神はその後の軽騎兵ウーランにも引き継がれ、18世紀頃まで騎兵や軍馬の最先端技術はポーランドが独占していたのです。ナポレオン時代の騎兵の軍帽が正方形をしているのは映画や絵画でよく見かけますが、あの正方形の軍帽こそポーランド軽騎兵ウーランが着用していたものが元になっています。そして現在もポーランドの軍帽は特徴的な正方形です。

ヴィラノフ宮殿ワルシャワ市南部のはずれには、17世紀に建てられたヴィラノフ宮殿があります。1684年、当時のポーランド国王ヤン・ソビエスキ3世は、トルコ軍のウィーン包囲を破ってヨーロッパに勝利をもたらしました。もしその時、ウィーンがトルコ軍に征服されていたら、ヨーロッパの歴史は大きく変わっていただろうと言われています。ヤン3世はその時の勝利を記念して、離宮としてこのヴィラノフ宮殿を造らせました。バロック風の宮殿には、ヤン3世が集めた家具や美術品の数々が残されています。宮殿を取り囲む緑豊かな庭園は、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿にも似た美しい庭園と言われています。ポーランドの黄金時代を象徴する宮殿のひとつです。

自由・民主・平等の精神

全くの偶然ですが、5月3日はポーランドでも憲法の日です。1791年5月3日、ヨーロッパ最初の近代的な成文憲法として採択された「5月3日憲法」は、「法の支配」と「三権分立」を中心理念にしたもので、ポーランド文化の先進性を象徴するものの一つです。 ザモイスキ現代の基準に照らしてもきわめて高度で完成度の高い民主憲法でした。しかし残念なことに、生まれたのが早すぎたのかあるいは遅きに失したのか、既に国土は周辺国に侵略され、他国と通ずる国内の売国的勢力によって国の根幹はぐらついていました。そして憲法発布後わずか4年でポーランドはロシア・ドイツ・オーストリアの三国によって分割され、国そのものが消滅してしまうという悲劇に見舞われるのでした。啓蒙主義と専制君主制が色濃く残る当時のヨーロッパにおいて、「自由・民主・平等」の精神を謳った革新的なこの憲法も、結果としてポーランドの栄光を蘇らせるためには役立ちませんでした。以後、123年間にわたってポーランドは亡国の悲劇に堪えなければなりませんでした。ショパン(1810-1849)やキュリー夫人(1867-1934)は、この時代の人です。彼らがその才能を発揮して活躍した場所は、ポーランドではなく、フランスのパリでした。自由な研究と活動を続けるために、ロシアに占領されたワルシャワを離れざるを得なかったのです。

第一次世界大戦後、ポーランドは帝政ロシアの崩壊によってようやく独立を回復します。しかし、その20年後にはナチス・ドイツがポーランドを奇襲、ドイツと密約を交わしていたソ連も東の国境を超えてなだれ込み、ドイツとソ連によって国土が再び分割占領されてしまいます。第二次世界大戦後、ポーランドは国境を約200㎞西に移動して国土を再び回復したものの、事実上、ソ連の支配下で社会主義体制を押しつけられ、鉄のカーテンに閉ざされてしまいます。EU加盟ポーランドの人々の多くがソ連やロシアを快く思わない背景にはこのような歴史がありました。逆に、ポーランドの人々の多くがあこがれる日本はますます遠い国となってしまったのです。ポーランドが真に自由を回復するのは、ワレサ議長率いる「連帯」の圧勝によって自由主義体制に転換してからのことです。その後、2004年には欧州連合(EU)に加盟を果たし、順調な経済発展を続けています。当初2012年までのユーロ(EUR)導入を目指していましたが、世界的な金融危機などの影響で、導入はまだ先になる見込みです。

愛国者ショパン

フレデリック・ショパンは、ピアノの詩人とも呼ばれ、その曲は日本でも広く親しまれています。幼少期からその才能は高く評価され、天才の名をほしいままにしていました。しかし、成長するとともに熱烈な愛国青年となったショパンにとって、ロシア支配下のワルシャワは息苦しいだけでなく危険な場所になっていました。特にロシアに対するワルシャワ市民の武装蜂起が失敗した後、ピアノ演奏家・作曲家として自由かつ安全に活動できる場は国外にしかありませんでした。彼は演奏旅行中にワルシャワ蜂起が失敗したことを知り、深い怒りと悲しみの中でパリ行きを決意します。その後、後世に残る名曲の数々をパリで書き残したショパンでしたが、彼の心は常にふるさとポーランドにありました。39年の短い生涯を終えた彼の心臓は、遺言によって故郷ポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの正十字架教会に収められました。

ピアニストの登竜門フレデリック・ショパン国際ピアノコンクールは、5年に1度ワルシャワのフィルハーモニーホールを中心に開催されます。ショパンコンクール「もしショパンが出場したとしても入賞は難しいだろう」とさえ言われるほど超難関のショパンコンクールには、世界中から300人近くの若いピアニストが参加します。多くの出場者は、夏から秋にかけて行われる1次~3次予選でふるい落とされ、本選に出場できるのは約10人です。優勝者を決める最終選考は、ショパンの命日である10月17日前後に行われます。日本からも毎年多くの若者が参加して上位入賞などの輝かしい成績を残していますが、ポーランドの人々は、「歴史も文化も異なる日本人が、なぜあのようにショパンを完璧なまでに理解し見事に演奏できるのか?!」と、驚きと賞賛をもって見つめています。一般的に日本ではポーランドはまだまだ遠い国のようですが、唯一ピアニストにとっては既にとても近い国だったのです。



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